人の死に直面して気付く、“生きている”という実感

子供のころ、自分の大好きな人が先に死んでいってしまうことなんて想像もしなかったけれど、年をとると、死を受け止める回数がどんどん多くなります。
人はそうやって、自分も死に向き合う準備をしているのでしょうか?
家族という形は、誰かが生まれて、誰かが死んで、入れ替わりをしているのですよね。私が生まれたころに生きていた人が、今はこの世にもういません。でも、私が大学生だったころにはこの世にいなかったおいっ子が、今では高校受験です。増えたり減ったりするのが家族ですね。
私は、今までに4回ほど人の骨を拾いましたが、いつか私の骨を拾ってくれる人がいるのでしょうか? 遠くにあるような気がする死も、本当はすごく近くにあるのだと、人の死が身近にやってくるとあらためて気付くのです。
私のおばあちゃんは、自分の子供(私の母)が先にいなくなって、おじいちゃんも先にいなくなって、若いころふさふさしていた黒髪は白くなって、元気だった足腰が弱くなって、しまいには歩けなくなって、言葉が話せなくなって、視力がどんどんなくなって、私を認識できなくなって、どんどん失っていったけれど、命を失うことがなければ、ほかの何を失っても生きてきた。そうして生きているおばあちゃんの心には、生きてきた思い出だけが宝物のように残っていて、どんどん心だけが若くなっていきました。
お見舞いに行くと、おばあちゃんは「よしおさん?」と、お付き合いしていた当時の呼び方で、おじいちゃんを呼びました。そこにいないおじいちゃんを呼んでいたのです。失いながら若くなる…おばあちゃんが最後に教えてくれたことです。
さて、私は仕事でよく飛行機に乗るのですが、あまりマイナスなことを考えない私でも、「落ちて死んだら…」とふと考えてしまうことがあります。それは「落ちたらどうしよう」という不安ではなく。
万が一落ちたら…
ああ、保険の受け取り名義を変更していなかった。ひそかに買っている(少額ですが…)、海外のファンドのこと誰か見つけることができるかなぁ。言っておけばよかった。死んでからベストセラーになったら、出版社さんは「和田さん、なんで死んだの?」と泣きながらも、本が売れたからうれしくて複雑だったりするかなぁ? いや、「和田さんには悪いけれど、和田さんの死によってこの本が売れたので社員には臨時ボーナスがあります」「わぁ、ばんざーい」となるのかしら? そうか…さみしいなぁ…
とか想像したりして(笑)。
そう思えば思うほどに「なんか死ねないわ」と当たり前ですが思い、なんだかもっとがんばろうと思えたりするのです。
「インターネットを通じて知り合った人が集団で自殺する事件が起きている。一方で中高年の自殺も増加している。死ぬ人を直接見る機会が少なくなり、死のリアリティーが希薄になっている」とコメントする見識者の方も多くなった世の中に生きている私たち。死に直面することができるからこそ、生きている実感がわくのですよね。
▼このエントリーへのコメント
私も昨夏に父を亡くしました。享年62歳という若さ。そしてあまりにも突然の死・・・実家を離れ暮らしていたので、大人になってからは殆ど会えることもなく、親孝行もなに一つできず、むしろどこかで父のことを誤解している部分もあったりと、未だに悔やんでも×2悔やみきれないことがたくさん・・・。悪夢であってほしいと何度願ったことでしょう。
人間の死について本当にここまで考えさせられたのは初めてでした。そして人の魂はどこにいきどうなるの??それは逝ってしまった本人にしかわからない・・・それが凄く不思議で、と同時に「お父さん、ずっと私たち家族のこと忘れないでね、そしていつまでも私は正真正銘、お父さんの娘だよ!」と。この思い、天まで届いてくれてるかな・・・。
