●森優子プロフィール
2005.4/13 更新
森優子の楽しむ旅行術バックナンバー
旅本ライブラリー(12)
イラストレーター・イトヒロ氏インタビュー(前編)
 旅先であろうとご近所であろうと、好奇心のアンテナが反応すればどこだって探検のフィールド。
 サバンナを駆けるキリンからヘビ使いのコブラ、サラダの唐辛子に至るまで、100の動植物についての自らのエピソードと「へえ」な学術的トピックを盛り込んだ「旅の虫眼鏡」の著者・イトヒロ氏にお話を聞きました。
虫のイトヒロは虫マニアじゃなかった?
読者の方のために解説しておきますと、イトヒロさんはこんなにかわゆ〜い絵を描いてはおられるが、実はかなりオジサンです。というか、もはや「おじいさん」の域に達していると言っても過言ではありませんね、年齢から言うと。
なんとでも言って下さい。
いやその。お若く見えますね、ということと、これからイトヒロさんの半生をうかがうにあたって読者の方には時代背景をちゃんと把握してもらわねばと思いまして。
はいはい。
私にとっては『イトヒロ=虫』という印象が強いのですが、やはり子供の頃は手塚治虫とかファーブルみたいな昆虫少年だったんでしょうか?
いや。よく『虫少年だったんでしょ』って言われるけど、実は特に虫マニアとか虫博士って呼ばれるほどじゃなかったんだよね。
え、意外。
そもそも育ったのが、町の中だったから。
ご出身は宮城県の築舘町。自然が少ない場所とは思えませんが。
もちろん自転車でちょっと走ればくぬぎ林とか川とか山とかあるんだけど、俺が住んでたのはそのあたりでは比較的住宅が多い町の中だったの。山のほうから学校へ通ってくる連中はクワガタなんかを捕まえて学校に連れてくるんだけど、俺にとっては「すげえ!」ってものでも、やつらにとっては「まわりに当たり前にいる虫」だった。虫捕りの穴場なんかも、よく知ってて。
知識も経験値も段違いってわけですね。
そうなんだよ。
でもそのうち小学生なりにも行動半径が広がって、仲のいい友だちと自転車で山のほうまで足を伸ばすようになっていったんだよね。
あれは忘れもしない小学校五年の時。朝四時、町外れの広場。そのとき初めて、本当に目の前にいたもんなあ、クワガタが。感激したなあ。
なるほど。その経験が小五とは、奥手なほうですね。
うん。その頃からはいろいろやってみたよ。夏にラジオ体操の会場に早めに行って、街灯の脇のプラタナスの木に体当たりすると、クワガタやらなんやらがバラバラと落ちてきたり。
夕方に山へ行ったら地面の穴からうじゃうじゃとセミの幼虫が出てくるんだけど、これを獲ってきて部屋のカーテンにぶらさげておくと夜中に羽化するのね。そういうのを見てワクワクしてた。
なんや。やっぱり立派な昆虫少年じゃないですか。
いやいや。そんなの、当時はごく普通の子供の遊びだったんだよ。
うちの近所にはまだ鉄道が通ってなかったんだけど、もし通ってたら列車マニアになってたかもしれない。恐竜が流行ってたら恐竜好きになってたかもしれない。
虫好きだから虫を獲るっていうんじゃなくて、面白い遊びを求めたらたまたま虫だったって感じで。つまりそれが普通の子供の楽しみだったんだよね。
なるほど。とはいえ、やはり虫に強烈に惹かれる部分があったこそ現在の『虫のイトヒロ』があるにちがいないと思うのですが。
マニアだったらきっと、何科の何目とか分布といった知識やコレクションに興味が向かってたかもしれないけど、自分の場合は「昆虫のシンプルな構造が好き」だったんだよ。「足が6本あってロボットみたいでかっこいいな」みたいな、要するに昆虫の機能美に憧れてたんだよな。
直筆サイン色紙プレゼント
『旅の虫眼鏡』の著者でイラストレーターのイトヒロ(伊藤博幸)さんの直筆サイン色紙を一名様にプレゼント!
応募は終了しました
締め切りは4月20日(水)。
当選者を4月27日更新の当コーナーで発表ののち発送します。
ゲスト
=イトヒロ氏
グレゴリ青山氏 
森優子 聞き手
=森優子
イトヒロ氏
↑イトヒロ氏。こう見えても実はすでに50歳をすぎておられる。
イトヒロ氏 プロフィール
1954年宮城県生まれ。自称「虫と草野球と旅の三位一体世界を追及するイラストレーター」。早稲田大学漫研から派生した草野球チーム「トピックス」の三塁手でもある。
著書に「不思議の国の昆虫図鑑(凱風社)」、「草野球非公式マニュアル(メタ・ブレーン)」、「からだで分かっちゃう草野球(学研)」、絵本「おひさまぞろぞろ(福音館書店)」などがある。
イトヒロの仲間
↑虫捕りに目覚めた頃のイトヒロ(右)・仲間のシュンヤ(中)・トシオ(左)少年。
「ザリガニ獲りとか魚釣りとか、いつも一緒につるんでた。シュンヤとはその後の浪人時代にも、マージャン・パチンコ・競馬でつるんだ(笑)」。
シュンヤ氏とは現在も大の仲よしで、「旅の虫眼鏡」に「アラブ首長国連邦に駐在中の友人」として登場している。
絵の原点は小学校の教室で火花を散らした
「マンガ対決」
生意気言いますが、イトヒロさんってほんっとーに絵がお上手ですよね。写実的な絵はもちろん、コミカルなタッチでも、デフォルメしたものでも「うっわー!ゆるぎないデッサン力」って圧倒される。こんなこと誉めると「プロに対して失礼な」って言う人もあろうけど、プロだからってみんなデッサン力があるわけじゃないって思いますからね。
イトヒロさんの絵は、絵が本当にうまくなきゃ描けないよなぁこりゃ、って。
そうかそうか。わしは誉められると素直に嬉しいぞ。
やはり子供の頃から絵が得意だったんでしょうか。
そうだな。描くのは好きだった。
漫画を描いたりした?
うん。漫画は描くのも読むのも好きだった(注1)。いちばん最初に漫画に触れたのは、たしか小学校1〜2年生の時。風邪をひいて寝込んだときに、母親がハードカバーの『魔人ガロン』っていう漫画を買ってきてくれたんだよね。両親ともに教員で働いてたから、「一人で寝ているときに寂しくないように」って考えてくれたんだろうね。
最初に自分で漫画を描いたのは小学校4年の時だったな。町に『モスラ対ゴジラ』の映画がきて、それを先生に引率されて学校から観にいったんだよ。で、夜、家に帰ってから「こんな感じだったな〜確か」なんて思い出しながら大学ノート四ページ分の漫画にして、翌日学校へ持っていったらこれがもう大好評でな。まわし読みされたあげく『ぜひ続きを』って嘆願された。
小四で読者獲得。
そのうちもう一人、同じクラスのヤツが真似して描いてくるようになってさ。そいつがまたうまくてね。
こっちの立場が怪しくなってきたんで、それまで『映画の再現』って感じで思い出しながら描いてたのをやめて、オリジナルで対抗することにしたの。
ほほう。好敵手(注2)が存在したおかげで、イトヒロ少年の才能は切磋琢磨されたってわけですね。ええ話や。
※注1→イトヒロ世代の漫画文化
昭和29年生まれのイトヒロさんが小学校中学年といえば昭和39〜40年ごろ。写真はまだモノクロ、漫画雑誌は買うよりも『貸し本屋で借りる』のが主流だった時代。買い食いを数日我慢して貯めたお金で三日ほど借り、友だち間でまわし読みした。
「冒険王、少年ブック、少年マガジン……当時の少年誌はだいたいひととおりは見てた。たしか少年画報に『鉄人28号』、少年サンデーに『おそまつ君』、月刊少年に『鉄腕アトム』が掲載されてたんだよ」
イトヒロ少年は、まさに日本の少年漫画の黄金期を満喫して育ったと言えよう。
※注2→イトヒロ君の漫画のライバル
その人物は大人になってから東京へ出て、某巨匠漫画家・ST氏のもとへ弟子入りしたそうな。田舎の小学校で繰り広げられたバトル、あなどれません。
描くより語るが主流だった
早稲田大学漫画研究会時代
当時、イトヒロ少年は漫画家を目指したいという大志を抱いたのでしょうか。
「なれるといいな〜」という気持ちはなかったわけじゃないけど、田舎だったからね。 「親父が教員なら息子も教員免許を取ってあとを継ぐのが自然」っていう雰囲気が濃厚な土地柄でもあり、時代だった。
自分でも「絵や漫画をやっていきたい」って宣言・実行するほどの自信も燃えたぎる情熱もなかったから、漠然と「自分も教員免許をとる」って方向に進んでいった感じだったな。
大学は早稲田大学。単身で東京へ出て来たんですよね。
東京へでたのは、おじの影響が大きかったの。戦前に台湾の高雄から早大へ留学して医者になったって人で、小さい頃から俺を可愛がってくれた。そのおじにずっと「お前も年頃になったら東京へ出ろ。日本の文化が集まる中心でいろんなものを吸収しろ」って言われてたことがあって。
親は地元の大学に進めって言ってたんだけどね。これが「自分の意志を初めて通した経験」だったかもしれない。
そこで「何か目標を作らなきゃ」って思って、「漫画研究会(注3)が有名だから」って入部したの。
では大学時代はそこで漫画を描きまくったんですか。
いや。四作しか描いてない。
へ。じゃあ部活って、いったい何やってたんですか。
漫研は100人ぐらいいたんだけど、全員が漫画を描かなきゃってわけじゃなかったんだよね。いくつか派閥というかグループがあって、描くほうでもギャグ漫画系とかシリアス路線とか分かれてて、漫画批評だけってグループもあった。
俺は「言葉がなくて、イラストをつなげていってイメージを展開するような漫画」を目指す「鉄面皮ゼミナール」っていうのをやっていて、思考を同じくして賛同する人と喫茶店に集まってああだこうだ語り合ってた。
ふーん。青春を謳歌したというと聞こえはいいけど、要するにさんざん遊んでたってことでしょうか。
うん。徹マンもビリヤードも、やれることはみんなやっちゃった。だから今、おかげさんで何の未練もないもんね。
※注3→早稲田漫
早稲田大学漫画研究会、通称「早稲漫(わせまん)」。園山俊二、東海林さだお、福池泡介、弘兼憲史、国友やすゆき、えびなみつる、やくみつる、けらえいこ……などなどなど、輩出した漫画家・著名人は数限りない。大学の一サークルとしてはあまりにも有名で、「慶応ボーイと早稲田マン」なんて茶化して表現されることもあるようで。
漫研で育まれた「虫のイトヒロ」の方向性
その、遊びまくった合間に描いたたった四作という漫画は、どういう感じのものだったのですか。
これが、その当時の同人誌(注4)。ここに掲載されてる。
うわーっ、これが当時のイトヒロさんの作品!?貴重品。
ふむふむ。ほお、これは今のイトヒロさんのテイストとはかけ離れた感じ、つげ義春風ですね。おや、こちらはセミ、こっちはチョウが題材になっている。おお、やはりこの当時から「虫のイトヒロ」だったんだ。
漫研に入ってGペンだの丸ペンだのを手にしても、最初は何を描いていいかわからなかったわけよ。でも模索してたある日、ふっと「山からとってきたセミの幼虫が、次々と羽化していく絵を見たいな」と思った。
自分が子供の頃、仲間のシュンヤたちといっしょに経験したり見たりしたものを、それをただ素直に描きたいなって思ったの。
虫を描きたいという素直な気持ちが、今の路線というか、方向性につながっていったんですね。
んんーとなあ。描いたらたまたま好評だったから「あらそう?」って調子づいただけかもしれんけどな。
調子づいて30余年。人生、そういう進み方もありってことでしょうか。
でも、そこから今までずっと一直線ってわけでもないんだよ。
ほう、といいますと…?
次回はこのつづき、プロになったいきさつや、旅の話、作品作りについてうかがいます。お楽しみに。
※注4→同人誌「早稲田漫」
チャイナ娘
226ページにわたるオフセット印刷。当時の販売価格は200円〜300円。近所の商店街の広告もたくさん掲載されているし、売れる数も多く、同人誌ながらしっかり利潤があがっていたようだ。
VOL.9(1974年夏号)に掲載されたイトヒロ氏のアマチュア時代の作品「蝉」より一部抜粋。さすがにまだ絵が無骨だが、イトヒロさんの原点を見る思い。
蝉1 蝉2

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